松本雄一郎商店

高度経済成長を迎えた昭和40年頃、
日本で初めてのスチール製物置が誕生しました。

東京オリンピックが昭和39年に開かれ、新幹線や首都高速が出来たのをきっかけに高度経済成長を迎えました。昭和40年頃、製薬会社さんが栄養ドリンクを開発して売り出しました。栄養ドリンクは大箱に入っていて嵩張るからお店に在庫を置く場所が無いので、在庫を入れるものを作るという事でM紅の鉄鉱部へ依頼したが、M紅の鉄鉱部では作ることが出来ず、最終的に目白製作所(東京都豊島区)が実際に作ることになりました。

その時の図面を書いたのが設計部のワタナベ氏、現場責任者がイワタ氏、組立工事をナカヤマ氏、資材の買い付けをわたしが行いました。当時の目白製作所はタイプライターデスクの製造が主力で、その次にイスのキャスターなどを製造していましたが、O村製作所のY原社長に「こんなもの(物置)を作ってみましたがどうですか、商品として売れますか?」と聞いたが、「こんなものは売れないよ」と言われたので、 初めはT製薬の依頼分以外は物置を作りませんでした。

しばらくして、目白製作所の営業部にいたゴトウ氏がM越の園芸売場に園芸のスチール製の植木鉢台を納める担当をしていたので、そのルートで物置の販売をお願いして、初めて小売店に物置が展示されて販売がスタートしました。この時に目白製作所が製造した物置の名前が【セイリーハウス】という名称であり当社PB商品でこの【セイリーハウス】の名前を絶やすことなく継承しています。

しかし、当時は手塚治虫さんのマンガの世界と同じで、当時の日本で物置と言えば、大工さんが作る木造の物置が主流であり、スチール製の物置なんて誰も想像しておらず、全く売れませんでした。その後、池袋にT武デパートがオープンして、T武の部長が「売れるかどうかわからないけど、50棟ばかり作って販売してみよう」と話が決まり、展示して販売を始めたところ、ものすごい勢いで売れた。とにかく売れた。それがスチール製物置の始まりでした。

当時の日本経済の発展と共に、一時は100社くらいあったメーカーだが、だんだん淘汰されていき今では10社くらいになってしまった。昭和44年に淀川製鋼所が目白製作所に来て物置を大阪に持ち帰り、昭和45年に開発したのがヨド物置です。そして、当時タオル掛けと水切りを製造していた田窪工業所が 物置を開発して作ったのがTYストックハウスである。タクボ物置の誕生でした。

昭和49年頃からM下が物置を販売していたが、その物置を作っていたのが当時、M下の下請けだった稲葉製作所です。それが時代の流れで稲場製作所がM下の下請けを終了し、その時のノウハウと抜群の開発力で稲葉製作所はイナバ物置を誕生させました。昭和50年2月の事です。

それ以降は二重構造の物置やガレージ、最近ではバイクガレージなども開発され、また、防災倉庫や防災物置などでも、丈夫で安心して長年使えるスチール製物置は貢献しています。

最後の物置メーカーと言われていたイナバ物置が誕生したのが昭和50年、フジ産業の設立年も昭和50年。それから、45年の時が流れて日本製では今までなかった、さんかく屋根のマツモト物置を当社が開発しました。今まで「誰も出来なかった、やれなかった、考えなかった」デザインだけではなく、組立完成価格のアフターフォロー付きのオドロキばかりのモノオキです。

45年間の物置メーカー代理店としての、想いや楽しさや悔しさを製品作りに活かしているようです。わたしも最初の物置「セイリーハウス」から、50年近く物置業界の中心におりますが、マツモト物置が今後どのように求められ、評価されるか非常に楽しみですし、あたたかく見守りたいと思います。

はじめて、わたしがマツモト物置MAタイプを工場で見た時に、「この物置なら物置業界に革命が起きる」と言ったことは今でもよく覚えています。物置の需要期は確かに過ぎたとは思いますが、やり方次第ではまだまだ面白いと思います。

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